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09/26/2005

神聖喜劇(三巻)

電車ばかり。電車で面白いのは中吊り広告なんだけど、知識の宝庫で楽しい。ここ最近しばらくのヒットはイタリアおやじ、要するにこれからのオヤジは イタリア長介 に学べってことらしい(ダメだコリャ、リバイバルがくるね!チョウさん!(*))…あとチョイワル、チョイワルか…。えびちゃんってすごいね、よくわかんないけど。
(*)長島のほう

しかし電車にのるとブロイラーのような気分で精神的にはよくない。だから本を読むことにしたのだった。以前より読んでいた

神聖喜劇 三巻 大西巨人

を読了。
1942年、日本軍の対馬要塞に徴集された「世界は真剣に生きるに値しない」虚無主義者、東堂太郎の変遷を描く長編小説。
戦時の兵営内の出来事を、じわじわと水面下で起こりつつある大きな流れと、当人にとってはとても大きく、実はすべてを内包しているような小さな出来事をめぐる人々のやり取りが時に真剣にそれゆえ馬鹿馬鹿しく描かれている…東堂太郎の内面から記述される引用の数々が人間の思考の過程と行為などのつながりを感じ、それらをじっとりと描いているのが興味深く、おもしろい。

印象に残ったのもこの東堂太郎の引用で、トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」から以下。


「そこからいささか大胆に結論するならば、詩人になるためには何か監獄の類に通暁している必要がある、ということになりましょう。」
「ちょっと試しに芸術に手を出してみるなどという人生のていたらくほど無残な光景が他にあり得るでしょうか」

「何人も、自己の生命を代償とすることなしには、芸術の月桂樹から、ほんのたった一葉をでも摘み取ることはできません。」

(中略)

トニオ・クレーデルないし、トーマス・マンは「芸術を身過ぎ世過ぎの稼業にしている人間」を「(真正の)芸術家」とは認めなかったのであり、したがってまた私も、まったく同断だったのである。そういう私において「(真正の)芸術家」は「習俗的であること」が(先天的、宿業的に)できないのであって、しかもまた「習俗的であることの悦楽にたいする内密にして激烈な憧憬」と「習俗的であること(の悦楽)に対する(一抹の)軽蔑」との対照的両者を(先天的宿業的に)ひとしく抱懐せざるを得ないのであった。

以上引用終わり。

しかしこれは色々と考えさせられる…問題は、どう抱懐するか、ということだろうけど、いやしかし。僕は習俗的過ぎるのではなかろうか。。。見すぎ世過ぎの稼業にしているんではなかろうか。どうか。

上記などのあたりから、癪を患った明石海人、早世した石川啄木、そして女ながらに歌壇に上がった江馬細香の作品より、人生を鑑みて芸術の顕現へと至っているあたりはとても考えさせるものだった。小説を読み進めていくときにならではの 上に上れば何かが見えるのではないか? というような期待と 何か知らなかったものが現れそう という気分は、最近ではすごく貴重だなあと思って、読んで理解しようとするところの行為も含めて、使ってない脳の部分を刺激されているようでなんともいえない。
その過程はまるで思考の流れがいろんな経路を枝分かれして、そのままに、ある結論に至るというところを再現しているように感じるのだった、遠回りじゃないか、というかもしれないけど、しかし、直線的なものでもなかろう。
そしてこれ小説でしか、できない。

もし長編小説を読みたい、と思ったら、日本語で書かれたこの小説をオススメします、翻訳された外国の小説も面白いけど、日本語で書かれたこういう小説らしい小説は、なかなかにないとおもいますゆえ。

次は四巻だけれども、トマス・ピンチョンの短編を読み始めたのだった。

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